「聖☆おにいさん」の1巻と「近未来不老不死伝説バンパイア」5巻(完)を買ってきました。

聖☆おにいさんは「声を出して笑う」ようなシチュエーションは1巻のほうが多かったですが、コレは2巻を先に読んでいたから、という部分もあったかなーと思っている次第であります。「聖人二枚」とかプール割るところとか。うちは昔(俺が小学校入るか入らないかくらいの時期)から父親だった人が十戒のビデオ借りてきて一緒に観たり(途中でくじける)、子ども部屋の本棚にブッダ、火の鳥(そしてなぜかつげ漫画等)を置いているような人間だったのである種原体験の中にいるんですよね、この聖人達は。だからなんだかマッタリ度2割増というか。


近未来不老不死伝説バンパイア

終了いたしました。「完結」とは書けない作品の出来ですね。2部になってからは何度も「到達すべき目標がないのでカタルシスが無い」と書いてきましたが結局何がしたいのかわからないまま終了。最後の展開も比喩としての「分かった」なのかイマイチ理解できない。かといって「ぼかしてた方が解釈が増えて面白くなる」系の内容でもない。伏線もほぼないものでしたしね・・・。
狂四郎の時も(というかたーちゃん末期の時からか)どうも左系統の思想というか左翼というよりは原始共産主義という方向なんですかね?その辺を絡めだすとせっかくの徳弘ギャグでも笑えなくなってくるんだよなー。特にバンパイアは(お為ごかしだけど)宗教的な側面もあるわけで、かつストーリーに練りが感じられないからなぁ。その辺作者も感じ取ったのか、新作はギャグ一辺倒らしいのでちょっと期待しときたいな
とはいえ、ラスト2,3話は面白かったですね、ラストのアレだけ拍子抜けだったけどそこに辿り着くまでは「どーなるんだろう?」とワクテカしながら読めた。

以下ネタバレ





というかラストの天国に行くような表現では「転生(?)した場合、前個体の記憶はあるが魂は別人」ということになり・・。いや、その解釈は既に劇中でされていたような気も?
しかしマリアと本田マリアが決定的に「魂魄の根本的部分からして違う」ことが(あの表現こそ比喩なのかもしれないが)明確にされたことによって1部と2部のつながりが完全に分断されてしまったですよね。極端な話、2部マリアを育てたのは昇平でなくても良かった。そもそも「不完全なバンパイア」になっていた物語的理由もほぼ不明なまま。”それ“のおかげで盛り上がった展開なんて無かったし。

10巻分全体を眺めての支離滅裂さ(ここを「先の見えない展開」と好意的に捉えることも出来るのかもしれないが・・・)から考えると前後編になったのは当初からのプロットではないと思えるんだけど、2部に対して何のために1部があったのかもうわかんなくなるんだよな。勝手な話だけど1部と2部が同じく5巻、ウエイトが同じという部分も悪く作用している気がする。

つーかあーちゃんが「神マリアだった」って本当どういう意味なんだろう?平山が言った「自分しか愛せない人間」ということを自覚して敬うべきは崇拝すべきは自分自身ということに気が付いたってことなの?それともあーちゃんの出生、あのカルト教団がなんか絡んでるのか、一瞬母親の顔になったよな?昭和マリア→本田マリア同様、カルト教団教祖→あーちゃんで転生する(再生能力のない)バンパイアだった、とも取れるんかな、マリアの襲撃を見越して予め産んでおいたとか。

ああ、なるほどまぁ考えていくといろいろネタが出てくるなー、「インターネット時代を見越したラスト」という捉え方も出来るなww。

狂四郎という前作が無かったとしても、やっぱりちょっと「人に勧められる」ようなカタルシスが無いのは痛いな。近未来編は風呂敷を畳めなかったどころか広げることすら出来なかった。